スーザンソンタグによる写真論の古典。
脱線的な箇所ではあるが、旅行と写真について鋭い考察が大変に印象に残った。ソンタグはこう言っている。
「写真撮影は経験の証明の道ではあるが、また経験を拒否する道でもある。写真になるものを探して経験を狭めたり、経験を映像や記念品に置き換えてしまうからである。旅行は写真を蓄積するための戦略となる。写真を撮るだけでも心が慰み、旅行のためにとかく心細くなりがちな気分を和らげてくれる。観光客は自分と、自分が出会う珍しいものの間にカメラを置かざるをえないような気持ちになるものだ。どう反応してよいかわからず彼らは写真を撮る。おかげで経験に格好がつく。立ち止り、写真を撮り、先へ進む。この方法はがむしゃらな労働の美徳に冒された国民であるドイツ人と日本人とアメリカ人にはとりわけ具合がよい。ふだんあくせく働いている人たちが休日で遊んでいるはずなのに、働いていないとどうも不安であるというのも、カメラを使えば落ち着くのである。」
カメラを持ち歩く旅は、何かを獲得しようとしていながら、何かを失っている。カメラは構えずに、肉眼で見て現実を経験する方がずっと獲得できるものが豊かなのかもしれないのに、だ。(ま、カメラが好きな人は写真撮影という経験を獲得するために旅行をするのでもあるのだが。)
ソンタグは別の箇所で、写真による獲得とは、
1 写真の中の大事なひとやものを代用所有する
2 出来事に対して消費者の関係をもつ
3 経験から切り離して、情報として獲得する
だよと言っている。おそらく1は記念写真、2は広告写真、3は報道写真などといってよいのだろう。写真とはメディアであるが故にからっぽなのである。一枚の写真に意味を無限に読み取ることもできるし、どんな意味を与えることもできる。
「自分ではなにも説明できない写真は、推論、思索、空想へのつきることのない誘いである」
「写真家にとっては結局、世界を飾る努力と、その仮面を剥ぎ取る反対の努力との間に違いはない」
それが絵画芸術と写真芸術の違いでもある。よい絵画と悪い絵画、良い写真と悪い写真を区別する基準は根本的に異なっている。だが視覚芸術として共通する部分ももちろんあるという。
「絵画と写真が共有するひとつの評価の基準は革新性である。絵画も写真もともに、それらが視覚言語における新しい形式上の計画や変化を与えるが故に評価されることがしばしばある。もうひとつ両者が共有できる基準は存在感の質である。」
わかりやすい部分を引用してみたが、これが書かれた1970年代後半の時代文脈を総括する部分(かなり多い)を読み解くには、事前に20世紀中葉までの欧米の代表的写真家の主張や作品についての予備知識が必要である。結構、敷居の高い読み物ではある。
さて、ソンタグは本書冒頭、人間の認知についてプラトンの洞窟のたとえを出した後、
「この飽くことを知らない写真の眼が、洞窟としての私たちの世界における幽閉の境界を変えている。写真は私たちに新しい視覚記号を教えることによって、なにを見たらよいのか、なにを目撃する権利があるのかについての観念を変えたり、拡げたりしている。」