【牛のみいちゃん】
牛を殺すとき、牛と目が合う。 そのたびに坂本さんは、「いつかこの仕事をやめよう」と思っていた。
ある日の夕方、牛を荷台に乗せた一台のトラックがやってきた。
「明日の牛か…」と坂本さんは思った。
しかし、いつまで経っても荷台から牛が降りてこない。
不思議に思って覗いてみると、10歳くらいの女の子が、牛のお腹をさすりながら何か話し掛けている。
その声が聞こえてきた。
「みいちゃん、ごめんねぇ。みいちゃん、ごめんねぇ……」坂本さんは思った、
(見なきゃよかった)
女の子のおじいちゃんが坂本さんに頭を下げた。「みいちゃんはこの子と一緒に育てました。 だけん、ずっとうちに置いとくつもりでした。
ばってん、みいちゃんば売らんと、お正月が来んとです。 明日はよろしくお願いします…」
(もうできん。もうこの仕事はやめよう)と思った坂本さん、明日の仕事を休むことにした。
家に帰ってから、そのことを小学生の息子のしのぶ君に話した。
しのぶ君はじっと聞いていた。
一緒にお風呂に入ったとき、しのぶ君は父親に言った。
「やっぱりお父さんがしてやってよ。
心の無か人がしたら牛が苦しむけん」
しかし、坂本さんは休むと決めていた。
翌日、学校に行く前に、しのぶ君はもう一度言った。
「お父さん、今日は行かなんよ!(行かないといけないよ)」
坂本さんの心が揺れた。そしてしぶしぶ仕事場へと車を走らせた。
牛舎に入った。坂本さんを見ると、 他の牛と同じようにみいちゃんも角を下げて威嚇するポーズをとった。
「みいちゃん、ごめんよう。 みいちゃんが肉にならんとみんなが困るけん。ごめんよう」と言うと、みいちゃんは坂本さんに首をこすり付けてきた。
殺すとき、動いて急所をはずすと牛は苦しむ。 坂本さんが、「じっとしとけよ、じっとしとけよ」と言うと、みいちゃんは動かなくなった。
次の瞬間、みいちゃんの目から大きな涙がこぼれ落ちた。
牛の涙を坂本さんは初めて見た。
『いのちをいただく』西日本新聞社より
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