★ビートきよし
「テレビに出たいということしか頭になかった浅草での修業時代。苦しい生活だったけれど苦労とは思わなかったねぇ」
芸能界にあこがれて、山形から上京したビートきよし(63)。浅草のストリップ劇場で芸人として基本を学び、夢を追っていた若い日々があった。
「修業っていったって金がなくてさ。メシを食うためにナンパしてたよ。最初は洋食屋の娘に面倒みてもらってたよ」
食べることをまずは確保。“腹が減っては修業ができぬ”の心境か。
「4、5年は続いたかな。金のかかりそうな女はお断り。面倒をみてくれる女をさがすワケ。捨てられない程度にね」
ストリップショーの合間に芝居とコント。悶々とした日々が続いた。
「映画ばかり観ていたよ。同じモノを何回観てもしょうがないと寄席(松竹演芸場)に入ったら、売れっ子だったWけんじ師匠が出てたんだよ」
寄席に出ればテレビ出演のチャンスがあると直感。漫才をやろうと自分のなかで決めた。
「コントだと衣装が必要だけど、漫才ならスーツがあればできるしね」
漫才を始め、名古屋・大須演芸場で月10日、1年間の出演が決まったが解散の憂き目。フランス座で一緒だった、ビートたけしに白羽の矢が立てられた。
「一緒にコントをやってた仲だから声をかけたんだ。でも最初の漫才は全然ウケない。お客さんはウーともスーとも言わなかったね」
たけしが機関銃のようにしゃべり倒す漫才は当時から変わらない。
「お客さんは相方(たけし)の話を聞くことだけで精いっぱい。でも先輩の芸人さんたちには大ウケ。玄人はわかってくれていましたよ」
コンビを組んだばかりの頃は、祭りの演芸会などの仕事ばかり。ギャラがカレーライス一杯、交通費だけでも、漫才師の仲間入りができたことが嬉しかった。
「キャバレーの営業は大変だったよ。漫才の最中に酔っ払いが『もういいから一緒に飲みにいこう』って言うのよ。相方が『金持ってんのかよ』と言い返すんだよ。1万円札を客が振りかざしていたら、相方が『飲みにいかなくていいから、この金くれ』って、札を取り上げちゃってね。客は怒るわ、ボクは舞台の上から『よしなさい!』って大騒動だったよ」
ツービートは毒ガス漫才とも呼ばれ、きよしの「よしなさい!」のツッコミと、たけしの過激なブラックユーモアで頂