いたずらけいさつのいたずらけいかんがこくみんにいたずらをしている9 #74

74鳳雛:2025/08/11(月) 04:39:52.78 ID:ktWaEk6B

www.youtube.com/watch?v=56piFfjlMtw
戦国時代最大のミステリーそれは本能寺の変だ織田信長を討ったのは明智光秀であるこの常識を疑ったことはあるだろうか教科書に載っている歴史は本当に正しいのか実は衝撃的な証言を記した古文書が眠っている本能寺の真実それは我々が知る歴史とは全く違うものだった一体何が起きていたのか440年間隠され続けてきた真実本当に光秀が犯人だったのかそれとも真犯人は別にいるのか歴史の闇に光を当てていこう本能寺の変の定説として最も有名なのが怨恨説だ信長の横暴に耐えかねた光秀が復讐を決意したこうした話は時代劇でもよく描かれるしかしこの説には致命的な欠陥があるまず取り上げるのは接待失敗説だ光秀は接待役を命じられたところが用意した魚が腐っていたため信長が激怒光秀は接待役を解任され深い屈辱を味わったというこの話の出典は川角太閤記という書物だ江戸時代初期に書かれた伝記である問題はこの書物の信憑性が極めて低いことだ実際の記録を見てみよう宿泊場所は光秀の屋敷ではなかった光秀が接待役を務めたという前提そのものが崩れている光秀が三日間接待を担当したという記録もある解任されたなら三日間も続けられるはずがないこの矛盾からも接待失敗説の嘘が見えてくる次に検証するのは屈辱説甲州征伐を終えた後光秀が祝賀の言葉を述べた我らが苦労した甲斐があったこれに対し信長が何の功があったかと激怒光秀の頭を打ち付けたというこの話も川角太閤記が出典である同じ書物から生まれた逸話であるしかもこの話には地理的な矛盾もある光秀は丹波攻めで忙しく甲州征伐にはほとんど参加していない光秀が同席していたという記述は一切ないこの場にいなかった可能性が高い三つ目は領地召し上げ説領地が召し上げられ代わりに敵地が与えられることになった家臣たちは不安に駆られ光秀に謀反を勧めたというこの話も江戸時代に書かれた軍記物語史実とは言い難い内容だそもそも敵地を与えるという話自体が非現実的である信長はそこまで無謀な人物ではないこれらの怨恨説に共通するのは全て江戸時代以降の創作という点なぜ江戸時代になって怨恨説が生まれたのかそれは暴君に対する復讐という構図が好まれたからだ勧善懲悪の物語として脚色されていった現代では怨恨説はほぼ否定されている怨恨説に代わって登場したのが野望説だ光秀が天下を狙って信長を討ったという解釈である根拠として持ち出されるのが本能寺の変の数日前に詠まれた連歌の句であるときは今あめが下しる五月かなこの句の解釈


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