www.webchikuma.jp/articles/-/347?page=2
キリスト教の文脈では神義論に最も深く関わるのは終末における救済と呪いである人間の行為が神の国における永遠の生あるいは地獄での永遠の責苦として描かれる死後にこの世界の終末の後に訪れるしかしこれでは生きている間は人類の歴史では救済はやってこないことになるそうした不満に応ずるかのようにキリスト教には地上における救済を説く教義が用意されているそれが千年王国論であるまずほんものの信仰者に聖霊が降り注ぐこれこそ再臨の予兆であるこれとともに背信の徒不信心者異教徒の迫害や攻撃は激しいものになる戦争や内乱あるいは自然災害による飢饉疫病が起きる地獄と見まごうばかりの悲惨な状況になるこのあと預言者が現れメシアがいつどこに来臨するかを告知するこれで信仰者は来臨が切迫しているのを知り迫害をものともせずついに預言にあったまさにその時その場所に降りてくるキリストはアンチキリストに率いられた不信心者の軍団を撃滅するこのあとが千年王国の時代であるキリスト自身が信者とともに統治する王国が出現する重要なことはこれが地上の王国だということだつまりこれはこの地上に実現した神の国であるソロモン王の宮殿よりも麗しくライオンが人を食わず草を食し子どもをその背に乗せて戯れるとその楽園の様子が記述されているこの状況は千年間続くしかし楽園の千年が経過した後に地獄に拘束されていた悪魔が封印を解いて復活するキリストはこれを返り討ちにして悪魔たちを葬り去るこの後に最後の審判がなされるこれまで地上に生きたすべての人々が復活し神が主宰する法廷で救済か呪いかの判定を受けるのであるこれが千年王国論が描く基本的なプロットである千年王国の到来とは終末に先立つ終末であるほんとうの終末の前に暫定的な終末がやってくるのだ千年王国は先取りされた神の国考えようによっては神の国のまがい物であるどうしてキリスト教の終末論に千年王国論が含まれているのか千年王国論には終末論に即した論理的な必然性はないしかしこのようなものが生み出される心理的なメカニズムであれば想像するのは難しくはない真の救済が終末の後に置かれるとするしかし終末の後の救済はほんとうの救済であろうか終末時の審判によって救済の可否が決定されるということは言い換えれば地上においては救済されないということである救済を真にありがたみのあるものに呪いを真に恐ろしいものにするためには決定する終末を真の末