Matt Burnsが書いた、先週彼の息子が学校で遭遇した状況は、米国内のほぼどこででも起き得ることだ。
学校の職業体験の日、彼の7歳の息子は将来ゲームデザイナーになりたいと先生に言った。
先生の反応は熱狂的どころか彼の夢を否定するものであり、それより本物の職業につくようにと息子に言った。
私はこの話が極めて稀なことだと思いたいが、そうではない。
メーカー(作り手)は、クリエイターから科学者、プログラマーに至るまで
アメリカにおける社会的地位が他の専門職より依然として低い。
誰もが起業家精神を賛えるが、自分の子供や家族がそれを目指すことを望む人は少ない ― べイエリアの中心地でさえも。
創造性は趣味か職業か
創造的経済は主流となるはずあり、専門家はわれわれに対して
子供たちの創造的才能を育み労働市場のオートメーション化と戦うべきだと説く。
しかしこの国の高等学校を見ると、ことごとく焦点はものづくり以外に当てられている。
工作の時間、アートスタジオ、エレクトロニクス実験室、そして学校新聞は消えつつあり
高いレベルのコンピューターサイエンスはもやは高学力生徒向けカリキュラムに含まれていない。
こうした変化が起きている純粋な実施上の理由はいくらでもある。
予算削減は国中の公立学校を襲い、教師はテストや説明責任に対する圧力の高まりによって
創造的科目以外に費す時間を増やすことを強いられている。
しかし、そうした理由だけでは「作ること」に対する敬意が未だに高まらないことを説明できない。
作る人々に対する偏見を調べるために、文化をより深く堀り下げてみる必要がある。
例えば、アメリカのテレビを見てみよう。
医者や警察官や弁護士に関する番組はずっと前から数多くあるが
「メーカー」についてはどうか?シリコンバレーからは、パロディー番組2つと
コメディー番組のThe Big Bang Theoryが生まれたが、いずれもオタクに同情的でかなり面白いものの
最悪のステレオタイプがいじられているように思える。