時間がないなと、男の子は思った。
姉さんの部屋のドアを開けるところで、男の子は止まった。
今日はやっぱりやめておこう。
そのまま壁伝いに廊下を進んで、母さんと父さんの部屋へ入った。
父さんのタンスの中から、適当なズボンとシャツを借りて着た。
さすがにブカブカだけど、ずっと着ていた部屋着よりは幾分かマシだ。
次に姉さんの部屋へ。
相変わらず机の上に置いてある手鏡を覗いた。
良かった、まだ寝ているようだ。
そのまま手に取り、自分の部屋に戻った。
小さい頃に買ってもらったショルダーバッグに手鏡を押し込んで、ハンチング帽を被った。
何年ぶりにするオシャレだろうか。
細く華奢な体とは裏腹に、気分は大きく高鳴っている。
玄関の扉はやけに重く感じられた。
腕が細くなったせいもあるだろうが、それだけではない。
数年この扉の外には出ていないのだ。
出ようとは何度も思ったが、僕の箱庭は居心地が良かったし、何より最近は女の子と話すことが外の世界の空想よりもずっと楽しかった。
ガシャ、とゆっくり扉を開けた。
そのとき丁度、馬車が目の前を通り、土煙を上げる。
窓越しじゃない土煙だ。
確かに危険がいっぱいだなあとぼんやり思った。
実を言うと、女の子の正体はなんとなく勘がついていた。
体が言うことを聞かず、何度か足がもつれ転倒する。
通りがかった人は男の子にちらりと目をやるも、何事もなかったかのように通り過ぎる。
男の子の痩せこけた顔は、いささか物乞いに見えなくもない。
今頃女の子は、鏡をじっと見つめているに違いない。
遅いわねと、しびれを切らしてふて寝しているかもしれない。
いつもなら男の子が先に起きて鏡の前で待機しているのだ。
今日に至っては申し訳ないが、もう少しだけ待っていて欲しい。
目の前がふらふらする。足がもつれる。
転びすぎて、ズボンに穴が空いてしまった。
もしも父さんのお気に入りとだったら悪いことをしてしまった。
普通の人ならきっと、昼頃には到着しているだろう。
男の子にとっては、身体的にこれまでの人生で最も辛い体験だ。
到着したのは昼も過ぎ、もう少しで夕陽が落ちるであろう時間だった。
片道切符だ。日が暮れる前に着けたのだから上出来だろう。