一時期KYなんて言葉が流行ったり、今でもアスペだ何だと空気を読む読めない関してはしばしば話題になる
それに対して空気は読むものじゃない吸うものだとかいう反論があって、いやその反論自体的を射てなくてアスp…いや何でもない
さてここからが本題で、俺の高校ののクラスメイトだったあいつはというと空気になってしまうらしい
俺の高校時代のある日、グループで集まって話し合う機会があったのだが所定の時間になっても始まらない
何でも一人足りないのだと
◯◯がまだ来ていないと誰かが言う
ついで別の誰かがどうしたのだろう?と言う
その時言われた◯◯、それはまごうことなきあいつの名前だった
あいつは生来のコミュ障らしく、自分からここにいますよと言うことができない
結局、俺が既に隣にいるあいつを見つけてあ!いるじゃないと言うまで10秒は要したと思う
突然だけど、空気のありがたみを意識したことってあるか?
たまに感じてもすぐに忘れてしまうと思う
例えば歯のありがたみを感じるのは虫歯になった時だけだし、まあそんなものだ
でも、なくてはならない存在であることも確かなわけで
あいつも、俺がくしゃみをしてポケットをいじって溜め息をついたら、いつのまにか近くにいて無言でティッシュを投げてくれた
俺が切り傷を負えば、いつからいたのか横から無言で絆創膏を置いて去っていった
とにかく普段は存在を意識することはあまりなかったが、高校を卒業して別々の大学になり、いざあいつがいなくなると何となく何か足りないような気がする…そのような存在だった
さて大学も卒業してさらに10年は経ち、まわりの環境は何もかも変わってしまった
もちろん俺自身も変わった
就活に失敗してニート、バックパッカー、フリーターと紆余曲折あって、今は何とか食っていけるレベルの小さい町工場で働いている
そんな時折、たまに地元に帰ってふるさとをあてもなく散歩することがある
そして昨日は、高校を一望できる高台から家路を急ぐ生徒らをぼんやりと見送っていた
もう11月も下旬で、寒風が刺すように痛い
俺はたまらずくしゃみをしたがあいにくティッシュはない
何気なく振り向くと、どこから飛んできたのか紙くずが舞っている
突然のあいつの訃報を聞いて1年になるが、あいつは本当に空気になって俺のそばにいるのかもしれない