下宿までは可なり遠かった。電車は込み合っていた。
漸くのことで電車に乗ると、ぎっしり人込みの中に
挟み込まれてしまった。金魚のことが気にかかった。
然しどうにも仕様がなかった。片手で吊革につかまりながら、
片手でやたらに肱を張って、金魚入れをかき抱くようにした。
無事に下宿の近くの停留場まで来ると、大きな金魚入れを
下げては中々降りられなかった。まごまごしているうちに電車は動き出した。
「下りるよ、下りるよ、」と彼は叫んだ。「降りますか、お早く願います、」
と車掌は云いながら、強く鈴の綱を引いた。電車は急に止った。
ごとんと反動が来た。彼は人並に揺られて、金魚入れを落してしまった。
硝子の容器が壊れた。水がぱっと飛び散った。立込んだ人々は、
驚いて一時に飛び上った。「金魚だ、金魚だ!」という声がした。