かもん、現代のソクラテスよ
かもん、現代のソクラテスよ
ふむ、一考の価値はありますな
セックスだけじゃなくてイチャラブもしたいんだが?
待ちたまえ君達、短絡的になってはいかん。ヤケになってもいかん。
冷静になって考えようではないか。
つまり、彼女 であるかぎり、やはり女でなければならんのだ。
さらに、セックスだけの関係では彼女ではなくてセフレなのだ。
しかし、女から彼女の部分を除いた残りの部分が、好ましくないので、それをどうにかできないか というわけだ
わかったかね?
ふむ、一考の価値はありますな。
ふむ、言葉遊びという気がしなくもないが
SEXは性差のことではないか。男同士でするのはセックスではない、セックスの擬似行為だ。
ボーイッシュな女は、女にさらにボーイッシュを足したものではないのか?
だとしたらボーイッシュな女はだめだ。
この矛盾は、足りないがために起きているのではない。 多すぎるから起きているのだ、と思う。
つまり、今の段階では 女⊃彼女 であり これを 女=彼女
とすることが哲学なのだ。
もちろんこれは彼女を拡大したり女をコピーしてはならず、
むしろ女を縮小したり、女に彼女をコピーさせて満たすというのが哲学なのだ。 わかったかね?
糞みたいな女 というのは、女に糞が付属しているか、それとも糞が女を構成しているのか。
どちらにしろ、この命題は哲学ではないな。
なぜなら糞は女ではなく、糞は女を含まず、女が糞を含むからだ。
便秘は女がよくかかる病気なのだ。
>>30
それは限りなく女に近い男とどこが違うのかな?
それによると思うが。
ボーイッシュ というのは、女という土台の上にボーイッシュという属性が乗っているに過ぎない。
あくまでボーイッシュという皮に包まれた女、ただの女にプラスアルファがある ということだ。
限りなく男に近い女 とあなたは言うが、それもやはり、ただの女に男の皮をかぶせただけではないのか。
そうでなければ、限りなく女に近い男と比較しても問題はでない。
しかし、ただ女に男の皮をかぶせただけなら、それはただ男に女の皮をかぶせたものと比較すると、意識の交差が生まれるだろう。 なぜなら、そこには余分な皮が二つあるからだ。
>>32
矛盾を解決するのに、矛と盾をぶつけなければよい と貴方は言う
だがそれは哲学ではない。 ただの思考停止である。
出来る出来ないは哲学ではない
なぜ出来ないのか、どうして出来るのかが哲学なのだ
その女が自分を女だと思えば、それは女であり、
そうである限りその女は彼女として欲しいが、しかし女は嫌いなのである。
嫌いな部分を一言で言い表すことは難しい。
それは女に普遍的に存在する。 しかし女それ自身はそれに気がついていない。
仮に、それを 女´(オンナダッシュ) と呼ぶ。
鏡の無い世界で自分の顔をしることができないように、女はその女´が自分にくっ付いていることを知覚しない。
もちろん男性の中にもそれを見ない、見えない人はいる。 しかし私には見えるし、見えるかぎりにおいては目をそらしたくない。
私は女の外見は好きである。 しかし彼女という存在に求めることは外見ではない。
女の性格は女それぞれによって違うだろう。 であれば、ここでいう女´は性格ではない。
存在自体が嫌い。 これは近い。 まさに存在そのものに何やら好ましくない部分があるのではないか。
アンドロイドが自分を女だと思えば、それは女だろう。 何も言わずともそれは女である。
私は自分を男だと思っている。 なので女にはなれない。
たいていの場合 はたいていの場合であり、全ての場合でではない。
しないといけないことがある と、絶対にしなければならない は別であり、
二つを混同することは哲学ではない。
彼女が欲しい という気持ちが女という存在に対して嫌悪感がない という気持ちの派生であるならば、そうだっただろう。
彼女が欲しい という気持ちは、 女という存在への好悪に左右されずに生まれるのであった。
>>52
ふむ、一考の価値がある。
>>53
目の前にあるものから抜け出せない想像力のたりない池沼ほど、他人を池沼あつかいする。
これは実に哲学だな。