>『内モンゴル人民革命党粛清事件(1966年に鄧小平が主導)』Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E4%BA%BA%E6%B0%91%E9%9D%A9%E5%91%BD%E5%85%9A%E7%B2%9B%E6%B8%85%E4%BA%8B%E4%BB%B6
>内モンゴル人民革命党粛清事件(うちモンゴルじんみんかくめいとうしゅくせいじけん)は、1966年から1976年にかけて (文化大革命)、モンゴル人数十万人が中国共産党によって粛清された事件[1]。
>1966年に開始された文化大革命で内モンゴルへの中央からの介入がより強化され、7月12日、鄧小平は内モンゴル自治区主席であったウランフを呼び出し[3]、「内外モンゴル統一を企む民族分裂主義者」「現代の王公となって独立王国を築こうとしている」などと攻撃して失脚させた。内モンゴルでは『内人党分子』とされたモンゴル人が弾圧された。
>南モンゴル(内モンゴル自治区)出身の楊海英によると、漢人たちはモンゴル人に対し、真っ赤に焼いた鉄棒を肛門に入れる、鉄釘を頭に打ち込む、モンゴル人女性のズボンを脱がせて、縄でその陰部をノコギリのように繰り返し引く、妊娠中の女性の胎内に手を入れて、その胎児を子宮から引っ張り出すなどの凄惨な性的暴行・拷問・殺戮を加えた[2]。内モンゴルのジャーナリストや研究者たちによると、当時内モンゴルに居住していた150万人弱のモンゴル人のうち、犠牲者は30万人に達し、その後、内モンゴルではモンゴル人の人口250万人に対して、漢人の入植者は3,000万人に激増した[2]。楊海英は、事件をきっかけに「19世紀以降に満洲、モンゴル、新疆へと、彼ら漢人(支那人)が領土拡張してきた方法」により、内モンゴルは植民地開拓され、「内モンゴル自治区ではモンゴル人の人口がたったの250万人にとどまり、あとから入植してきた支那人はいつの間にか3,000万人にも膨れあがり、その地位が完全に逆転してしまいました。支那人による植民地開拓のプロセスは何処でも基本的に同じ人海戦術です」と述べている[2]。