支那かぶれ屑ハーバード大学教授だったキッシンジャー補佐官に追随してニクソン大統領が“支那風の臣下の礼”を取って支那に出向いた。
幾ら複雑な国際政治状況下にあったとはいえ、狂人ヒットラーのナチ党によるホロコーストに劣らず悪逆非道な恐怖政治の行われていた文化大革命下の支那との友好関係を優先したキッシンジャー外交は正当化されるか?
文化大革命の後、1978年から鄧小平が『改革開放』を宣言し、人口10億を超える巨大な支那市場を開放し、西側からの直接投資を歓迎するとアピールすると、我先に中国共産党に取り入ろうと西側諸国が目の色を変えた。
特にマーガレット・サッチャーは住民投票も行わずに香港を差し出して鄧小平の機嫌を取り(1984年)、ベトナム反戦運動の活動家だったビル・クリントンもプロレタリア一党独裁体制にしがみ付く鄧小平の中国共産党を『戦略的パートナー』と持ち上げた。
しかし鄧小平こそは文化大革命の最中の1966年に、内モンゴル自治区主席であったウランフに凄惨きわまりない内モンゴル人民革命党粛清事件を命じた張本人だった。
我先に支那市場に食い込もうと人道に対する重大な罪を犯した鄧小平の機嫌を取ったマーガレット・サッチャーやビル・クリントンの振る舞いは正当なものだったか?