昔、次のような話があったようです。
寒い冬に橋の下でブルブル震えている乞食を、たまたま通った禅僧が見て、着衣を脱いで投げ与えた。それを着た乞食は、ジロッと見ただけで何の言葉も返ってこない。たまりかねた禅僧が「どうだ少しぐらいは暖かくなったかな?」と声をかけた。すると「着れば暖かいに決まっている。わかりきった事をなぜ聞くのか。与える身分を喜べよ。」と。即座の返答に見返りを待つみえみえの礼の催促をする心をみすかされて、僧は恥をかいたという。
人は、良いと思ってした事を相手が誉めもせず、感謝もしないとあんなにしてやったのに、と途端に腹が立つ。恩着せ心の塊である。時にまた、我々は恩を着せられると腹が立つ。自分がしていることを、相手にされると腹が立つのである。
逆境の人をあわれみ悲しんでふと気が付き“慈悲深い我”と得意になっている醜さに驚くのは、心から善に向かった者だけである。親鸞聖人が、自己のすべてを『雑毒虚仮』他人騙しのうそっぱち、と嘆かれたのは、無明の闇が晴れ、知らされた真実の自己の姿である。しかし、どんな情けない存在と痛感している人でも百パーセント悪いと思ってはいないだろう。反省ぐらいはしてみても、どこかで自己を認めているのではなかろうか。恥じるべき心のない悪の自己を知らされた『無慚無愧』の自覚ほど徹底した慚愧はないであろう。
偽善者とは、人の為と言って善をする者というそうである。
親鸞聖人は、『尊号真像銘文』で、“煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆえなり”といわれている。