801サロン@チラシの裏避難所 1891枚目 #489

489名無しさん@Next2ch:2019/10/24(木) 20:35:53.70 ID:???

けしからん爺の手を握ったあとの指からは、工業用オイルがにおう。
50年。一口に言える年月は、退職後も消えない香りをかの人に染み付かせた。
くわしい爺は洗面台の前に立ち、数度鼻をひくつかせた。「けしからん」と叫んだ表情と、歪んで節榑だった指を交互に思い出すにつれ、記憶は一口に言える年月を遡った。
上京のきっかけは大学進学だった。中学生時分から死に物狂いで勉強し、地方の進学校から私立大学の奨学生となったのだ。
はじめての東京は、故郷と同じ日本と思えぬほど建物が高く、きらびやかで、目が眩んだ。そこで遊びを覚えて、酒とタバコの味を知り、女を抱いた。
くわ爺は、東京のほとんどすべてを気に入っていた。東京が差し出すものならば、なんでも受け入れた。バルボトムのジーンズを履き、髪を伸ばした。もう五年はやく生まれていたなら、安田講堂に立て込もってさえいただろう。
唯一の不満は、大学の裏手に細い道を挟んで建つ高等学校の存在だった。くわ爺が五限の講義を終えて、近道にしている裏口から出ると、高校の教室のひとつが明るく照らされてるのが外からも見えた。
油染みのついた作業着姿の青年たちや、痩せて猫背の中年、あるいは派手な化粧とミニスカートの女性が、その一室へ引き寄せられるようにくわ爺と同じ道を歩いていく。
彼らは皆、夜間高校の生徒たちだった。くわ爺は、彼らとすれ違うのが好きではなかった。特に、工業用オイルをにおわせている工員たちは、なるべくなら避けたかった。
その香りは、くわ爺に故郷の父を思い出させるのだ。安い賃金で朝から晩まで工場で働き、夕食前にラジオを聞きながらビールを飲み、あたりめを摘まむのを生き甲斐にしている、小さな父だ。
あたりめをつかむ手の爪は、擦られて小さくなり油で黒ずんでいた。ごつごつと骨が目立ち、まっすぐには伸びず、ところどころがしなって歪んだ爪だった。
くわ爺は工員たちとすれ違うたび、暗がりで自分の手を確認した。白く、まっすぐで、爪だってちゃんとある。まだ頼りなかった街灯でははっきり見えないが、そうに決まっている。
その手をぐっと握り、拳に力を込めた。爪が食い込み、手のひらが痛んだ。校門をくぐった工員たちをちらりと盗み見て、「あんなふうにはなるものか」と、くわ爺は何度も胸中に反芻させた。
あんなふうにはなるものか。親父のようになど、なるものか。

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