「ぼくにまかせて。ぼくは詳しいんだ」
くわ爺の右手がけし爺の左手を取る。けし爺は身をすくませた。けし爺の若い時分には自由恋愛が浸透していたが、それは青春と言える時間を持つ者だけの特権だった。
けし爺の生家は貧しく、高校進学さえ叶わなかった。当時すでに活発ではなかった集団就職で上京したのは、15歳の春だった。
働き始めた工場は決して大きくなかったが社長の厚意で夜間高校に通い、6年間かけてなんとか卒業した。
妻は同じ工場で働く社員の娘で、見合い結婚だ。昨冬彼女が亡くなるまで添い遂げた。だからけし爺は、恋をしらなかった。
その恋が今、けし爺の左手を掴もうとしている。同じ年代、そして同じ男の姿をとって。
「けしからん…そんなものは、けしからん!」
けし爺は叫んだ。だが、くわ爺をはねのけなどしなかった。くわ爺は微笑んだ。喜びのほかに、満足と勝者の余裕とが滲んでいた。