支那かぶれ天台宗や真言宗は猛省せよ! #41

41シンクレティズムこそ平和的共存の必須条件:2025/11/03(月) 19:43:06.93 ID:/05/0HR6

『古代日本の宗教戦争の顛末』

〓物部氏の神道至上主義と蘇我氏の仏教至上主義。

〓蘇我氏が物部氏を滅ぼし、日本は一旦 仏教国になった。

〓しかし中大兄皇子(後の天智天皇)と神道至上主義の中臣鎌足がクーデター、乙巳の変(西暦645年)を引き起こして仏教至上主義の蘇我氏を滅ぼした。

〓ところが間もなく西暦663年に朝鮮半島で白村江の戦いが起こり、日本・百済連合軍が唐・新羅連合軍に大敗。

〓こうした流れを受け、天智天皇が崩御すると、神道至上主義の中臣鎌足と盟友関係にあった天智天皇の嫡男、大友皇子は西暦672年に壬申の乱を蒙り、乱の渦中に弘文天皇として即位したものの その皇統は間もなく廃絶された。

〓西暦672年の壬申の乱で勝者となった天智天皇の弟である大海人皇子が天武天皇として即位(西暦673年)し、皇統が移ると共に西暦667年から朝廷が置かれた近江大津京は廃絶され、仏教残存勢力が拠る飛鳥(浄御原宮)へと還都が実行された。

〓天武天皇の皇后であった持統天皇は(神道至上主義の)天智天皇の息女であったが、大海人皇子(後の天武天皇)の妃になると壬申の乱では仏教重視の天武天皇に付き従い、天武天皇の遺志を継いで飛鳥に藤原京を建設し、西暦680年には法相宗の薬師寺を建立した。

〓乙巳の変(西暦645年)以来、天智天皇と共に神道至上主義だった中臣鎌足(藤原鎌足)だが、白村江の敗戦(西暦663年)や壬申の乱(西暦672年)を経て嫡男の藤原不比等の代になると法相宗の興福寺を建立して藤原氏の氏寺とするに至った(西暦720年、『続日本紀』)。

〓こうして物部氏と蘇我氏の権力闘争に端を発した古代日本における宗教戦争(神道 v 仏教)は、天武天皇と持統天皇の治世に神仏習合(シンクレティズム)という形で決着した。



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