「意味」という言葉を前にして、なぜ味かなどとなり、誰かに出してもらったのか「意義」が気になり、意味が有るのは有意義でとなり…
分かりますか
ゆえに、人生相談板で、「所謂」から始め、食べ物や貰い物でなく意味に対して「頂けない」で締めくくった知能男の文章に感銘を受けた
まだ遠いのですが
例示できませんが
「腑に落ちない」も、繋がるのでその意味では面白く、ただしそれは単にその知能勢の上手さであり…
要は、味無い味、今で言う哲学ではあるがそんな話ではなく、もしくはそうであるにしても、そういった文学的な要素を極端に嫌った
覚えたくないとさえ思った
いらないと
ゆえに文章にも使わない
これが、文章力の低さに繋がっていませんか?
基準として同じでは
文章力としては活用できるので重宝すればいいもの
それを嫌い、敢えて行わず、理系の言葉選びをする
理系の、投稿への挑戦
人は、わがままな文学に溺れていませんか
この「溺れる」が俺のそれですが、それは厳しい観閲の元
なぜ間違うのか
俺からすれば、俺の珍しさである、俺にしては珍しい下手さという意味では無い人からして珍しい不出来さである文章力の低さにおいて、その理由の文学性排除が人に無いから間違うのではと
何か似た話がお堅くありましたが、信憑性を感じます
仲間のその量も少なければドンピシャだと思います
俺が模型を作りつつ研究職にでも就き、幸せな一般家庭を築くのも面白いと思うような、幼少期の理系の性分こそが、そのままに俺の正しさであると
そして、人は文章力などから、これも全て文章なのでその読みにくさから、俺が悪いと、間違いだらけと邪推に繋がっているのでは
俺は多分、文学性の高いそういった記憶による表現すら苦手です
わざと排除しようと意欲的でしたから
そしてそれは、正しさを求めてのこと
ここでも滅多に使いません
この文章も締めが悪いと言いますか
俺からすれば、楽しさと正しさの違いですが
その方々は素敵な文章で素敵な料理も分かって、簡単に楽しんでいます
単純に快楽に溺れ、俺は正しさを追い求めてと
現に俺は、一般的な楽しさなどありません
一人しみじみと寂しい物です
社会的に評価され、地位や収入など俺とは違うものの、研究職の方かのように
ここで孤高を意味する一言で、「◯◯かのように」とでも纏めればまだいい終わりですが、俺には思い付きませんし、ありません
正しさを追い求めるので