「引きこもりだから知識はあるだろう」に対して
たしかに、知識の豆納橋であって、経験ではないように思える
それでも、実は知識は筋肉と相関があるので、体を使えていなかった俺は、知識が無かったと考えられる
そして、それでも言うのならば、知識と経験で何方でもないということでは
俺からすれば迫害され、引きこもり、知識を詰め込む経験知、そんな論理だが
俺からすれば、覚えに覚え考えられはしない方々に対してのことだから、論理とした方が正しいように思う
なんせ、女学を引っ張っているのは俺
「天才は天才を知る」「努力は努力を知る」「神様は神様を知る」
これを考えたのも俺
人様が神様も、一対六対三も、その倍も、1%弱も、定義の定義も、他の数化も、一次元空間と三次元時間も、運命の図形も
数学と文学に並ばせる、場合によっては率先させる物
これで論理と言わない手は無い
短期記憶と健忘、俺の敵は俺と言えてしまう中で、なんとか考えたもの
運動で脳細胞が増えることも証明されている
これで俺が多いとは言えない
少なくとも普通
それは俺の基準での普通では
少ないのでは
知識も経験も少数精鋭では
それを経験則、論理と呼ぶ
そんな気がする
引きこもりの経験がある
この一文は論理では
同じく論理を導く出すのが上手いのでは
なんせ精神科医が指摘するよりずっと創造的な頭なので
それは幼少期からの愛されなかった経験では
あとはあの子が愛されているという死ねばいい奴
YURIさんも、推されの方々の嘆願書で守られるわけでも何でも無く、虐待され続けるだけの身
俺が助けるまでは何も無いのかも知れないほど
幼少期よりそんな人生で、都合よく使われているだけなのでは
愛されているというのならば、死ねばいい
これで正しい気がする