渡辺は46の出典を参照させる。その中には、問題なく出典の摘示が成立しているものがない。巻号表記は出鱈目で、同一文献が複数回登場しても統一した記述がなされないという形式面だけを見ても、既に注として不十分である。のみならず、引用らしく書かれるものが、しばしば渡辺によって改変されているのである。このような捏造は、10件が確認され2件が疑われるものとなっている。それでいて渡辺は、書き写すことができないというわけでもないようである。渡辺は、他人が書いたものを平気で窃用する。短く簡潔な断片故に表現が似ざるを得ないとは言えるのかも知れない。とはいえ、それが一度ではない。この程度の量のうちに、3件が疑義を挟まれるのである。あまつさえ渡辺は、二次的な叙述を用いることで二重引用の疑いを挟まれる行為を3度もやってのける。
比較的問題が少ないものも見られるとはいえ、しばしば渡辺による翻訳を経ることになる引用抜きで単なる参照先の提示がなされていれば故のことに過ぎない。
そして、稀にそういったものが見られるのではなく、そこいら中がこの調子である。これらの総体は、研究不正と評価されるに相応しいのではなかろうか。なるほど、それが意図的な不正であることをただちに肯定することはできない。だが、それが悪質な不正であるのを否定することもまたできないのである(笑)。
さて、こういうことをやってのける方の「研究」とは、どういうものなのだろうか。指導を請け負った新保史生先生のお考えを伺ってみたいものだ。