徳川幕府の残党は昌平坂学問所(看板だけ『東京帝国大学』に架け替え)を根城に、『資本主義ブルジョア自由主義経済を ぶっ壊し、社会主義プロレタリア暴力革命を成就せよ!』と喧伝する共産主義マルクス経済学を垂れ流し続けている。
徳川の残党は、戊辰戦争で徳川幕府を壊滅させた薩長土肥の藩閥明治政府が育成した資本主義経済による日本の近代化、また祖法に反する開国に追い込み徳川幕府を滅亡に追い込んだアメリカの資本主義ブルジョア自由主義経済を憎悪したのだ。
>社会主義計画経済においては個々の人民の“能力”に関して『党中央』が下す評価に応じて計画的に働き、個々の人民の“必要”に関して『党中央』が下す決定に応じ 財サービスの分配が行われる。
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また共産主義マルクス経済学者は、正常財を選好する消費者行動に『物神崇拝(フェティシズム)』の烙印を押して生活必需品や劣等財の生産・消費しか認めない。
生活必需品や劣等財の生産・消費しか行わない社会主義経済が数量ベースの実質経済成長を維持するためには不況を追い風にするか、Social dumpingを伴うBeggar-Thy-Neighbor(近隣窮乏化)輸出ドライブに依存するしかない。
武器を取り上げ(『刀狩り』)た上で被支配者を農地に縛り付け年貢米を取り立てた江戸時代の日本経済は、士農工商の身分制度によってブルジョア階級を最下層に位置づけたのでイノベーション、すなわち産業革命も不発だったので、高級な伝統工芸品を購入する支配階級以外は生活必需品と劣等財による粗末な日常生活を送るしかなかった。
鎖国政策を維持し、オランダや清朝との貿易も長崎など ほんの数箇所に限られたので、Social dumpingを伴うBeggar-Thy-Neighbor(近隣窮乏化)輸出ドライブに依存した数量ベースの高い実質経済成長を達成することもできず、江戸幕末の日本経済は困窮の極みであった。
経済が困窮の極みであったから、連れて徳川日本の国防力も非常に御粗末で、1853年のペリー来航の際は黒船の空砲に幕府の役人達が腰を抜かし、何の抵抗もできぬ侭 不平等条約を受け容れるより他に選択肢が無かった。
戦国時代末期には無敵艦隊を擁したスペイン海軍さえ寄せ付けなかった日本は、江戸幕末になると蒸気船が轟かせた空砲に腰を抜かす程 弱体化したのである。
ところが徳川の残党は、口角泡を飛ばしながら、関ヶ原の戦いから260年の長きに亘り天下泰平を維持したのは徳川幕府最大の功績と自画自賛して見せる。
刀狩りによってブルジョア革命の芽を摘み、また士農工商の身分制度によってブルジョア階級を最下層に押し込め、イノベーションすなわち技術革新、産業革命が不発だったため、江戸時代の日本の軍事力は衰退の一途を辿った。
アフリカや東南アジアを征服した西洋列強の黒船が日本近海に姿を見せ始めた19世紀初頭には、阿片戦争で無様な大敗を喫した清朝と全く同様、徳川幕府の鎖国日本の国防力は、いつ西洋列強に侵略され植民地化されても不思議ではない劣悪な状況に陥っていたのである。
たまたま西洋列強の矛先が日本より先に清朝を突いただけのことであった。
徳川の残党が自画自賛する天下泰平を貪り、泰平の眠りに落ちていた日本は、産業革命を経た西洋列強に対して実に丸腰同然だったのだ。
旧社会党が『非武装中立』を唱えたことがあった。
泰平の眠りに落ちていた徳川日本は丁度そんな状態であったのだ。
幾ら自国が高尚な平和主義を掲げ『非武装中立』を唱えたところで、相手国が軍事大国であれば座して植民地化されるのを待つしかないのである。
要するに260年の徳川