普天間基地がある沖縄県宜野湾市の教育委員会によりますと、窓が落下した普天間第二小学校や市の教育委員会に、学校などを中傷する内容の電話が19日までに25件あったということです。
電話は、「基地があるところに学校をあとから造ったのに文句を言うな」とか、「基地のおかげで稼いでいるのだからよいのではないか」といった内容だということです。
これについて、宜野湾市教育委員会は「アメリカ軍に土地を接収され、ほかに土地が無いためにしかたなく建てたのが今の場所であり、事実を知ってほしい」と話しています。
また、学校では、事故のあと児童の安全を確保するためグラウンドでの体育の授業や休み時間中の屋外での遊びを禁止するなどの対応を余儀なくされていて、相次ぐ電話は教職員の心理的な負担にもなっているということです。
■住民“正しい経緯を知って”
普天間基地と人々の暮らしをめぐっては、住民の側から正しい経緯を知ってもらうという動きも起きています。
宜野湾市によりますと、普天間基地がある場所には、沖縄戦の直前、14の集落にまたがり役場や学校などがありましたが、72年前、太平洋戦争末期の沖縄戦で上陸したアメリカ軍が、住民から強制的に土地を接収して普天間基地を建設しました。
ところが、おととし、自民党の勉強会に招かれた作家が「騒音がうるさいのはわかるが、そこを選んで住んだのは誰だ」と発言したほか、「危険な場所にあえて住んでいるのではないか」などという意見がインターネット上でも出るようになりました。
これに対して、基地周辺の住民からは反発の声が上がり、普天間基地が造られる前、戦前の集落の様子をコンピューターグラフィックスで再現したDVDを作り、地域の歴史を知ってもらおうという動きも起きています。
DVDを作成した宮城政一さん(74)さんは、基地となる前の集落で生まれ、今は普天間基地の近くに住んでいます。宮城さんは「『何もなかったところに基地ができた』という意見を聞くと、私たちのふるさとを消し去られたような気分になり、強い怒りを覚える。正しい歴史を知ってほしい」と話しています。
■学校 開校からの経緯
普天間第二小学校は、人口増加に伴って児童数が増えた近くの小学校から分離する形で、昭和44年に開校しました。
市の真ん中に広大なアメリカ軍普天間基地があるという状況の中、土地は限られ、確保できたのは基地に隣接する現在の場所でした。
開校したあと、普天間基地に本土や沖縄の別の基地から軍用機や施設が移され、当初想定していなかった形で基地の機能が強化されました。
このため、保護者などから学校の移転に向けた声が強まり、昭和50年代に移転計画が持ち上がります。
しかし、土地確保の費用に国の補助を受けられなかったことや、移転の条件にあう場所が近くの別の基地内にしかなく、交渉が難しかったこと、それに、移転したあとの土地を普天間基地に併合する案が出されたことなどから、10年以上議論が続いたものの結局移転していません。