好きな花見が犠牲になるのは受け入れる
今年は花見が取り止めになった。近所の公園の桜の木々は、派手なオレンジの柵で囲われた。まるでテープを張り巡らされた巨大な犯行現場だ。悲しい風景だった。
花見は、日本の四季折々の行事のなかでも私がとりわけ大切に思ってきたもののひとつだ。花の美しさも、人々が上機嫌になる姿も好きだからだ。
長く荒涼とした冬が終わり、自然が息を吹き返すときの感覚もある。
そこには生死の真理が、命を持った者の形をとって目の前で繰り広げられるかのような趣がある。死には生が続き、寒さの後には暖かさが戻り、苦しみも悲しみもやがて和らぐ。多くの宗教や芸術の中核にある、あの約束や慰めがそこにはあるのだ。
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