【The・中世】冤罪の死刑囚・稲生昌三さん(76)が死亡。豚箱に46年間。証拠は自白のみ #1

1番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2015/10/05(月) 01:39:53.88 ID:ihWZ/8JD

 1969年9月、名古屋高裁で逆転死刑判決を受けた奥西勝死刑囚は、その後の46年の大半を名古屋拘置所(名古屋市)で過ごし、独房から冤罪(えんざい)を訴え続けた。
 
 特別面会人の稲生昌三さん(76)によると、3畳ほどの独房には三重ガラスの窓が一つ。空しか見えない窓から外界に思いをはせ、
執行の恐怖に向き合ってきた。死刑は朝に執行されることから、「昼食の時間になってやっと安心できる」。夕食後は再び翌朝の執行におびえた。
 恐怖におののく日々から抜け出そうと、再審請求を繰り返した。73年以降、4回に及んだ独力での請求はいずれも棄却。
5回目以降は日弁連が支援して弁護団が結成され、稲生さんら支援者も拘置所に待遇改善を求めるなどしてきた。
 2005年4月。第7次請求審で名古屋高裁が弁護側提出の新証拠を評価し、再審開始を決定。
拘置所の面会室で奥西死刑囚は稲生さんとアクリル板越しに手のひらを合わせ、喜びで号泣した。
 しかし06年に同高裁の別の部が検察の異議を認め、決定は取り消しに。直後に帯状疱疹(ほうしん)を発症、痛みと執行の悪夢にさいなまれる数カ月を送った。
 弁護側の特別抗告を受けた最高裁は、審理を差し戻したが、名古屋高裁は12年5月、改めて再審請求を棄却。
「これが最後」と懸けていた反動もあってか、2日後に高熱を出して名古屋市内の病院に入院し、そのまま八王子医療刑務所(東京都八王子市)に移された。
 晩年は、稲生さんの計らいで年1200通ほど届く全国からの励ましの絵手紙を「心の食べ物」「元気の糧」と呼び楽しみにしてきた。
「再審公判では(無罪判決を受け)自分の脚で裁判所から出て行きたい」と、手脚の運動を心掛けていた。
 しかし、医療刑務所移送後はベッドで過ごすことが多くなり、一時危篤状態に陥って以降は、人工呼吸と栄養剤の点滴の管を体につながれ寝たきりの状態となっていた。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151004-00000062-jij-soci

江川紹子 | 2015/10/04 19:16
ジャーナリスト
 奥西さんは、一審は無罪だった。第7次再審請求で、一度は再審開始決定が出た。
複数の裁判官が、奥西さんを有罪(死刑)にすることに疑問を持った事件であることを忘れてはならない。
 再審請求の課程では、科学的知見に基づく証拠が次々に示され、原審の有罪判決の根拠はもうガタガタになっていた。
奥西さんと事件を結びつける証拠として残ったのは、無理な取り調べで取られた「自白」と、途中で大きく変遷した住民たちの「証言」くらい。
遅くとも、この第7次請求の段階で再審を開くべきだった。
 にも関わらず、とうとう再審を開かなかった司法は、奥西さんの人権や人生、科学的知見より、
裁判所の無謬性やメンツを守ることを優先したと言わざるをえない。
 雪冤を果たさずに死んでたまるか、という強い意志で、幾たびかの生命の危機を乗り越え、
懸命に命の灯火を灯し続けてきた奥西さんの無念さはいかばかりだろうか。

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