つまり、信徒が救済されるためには、信徒に導かせる必要がある。
さあ、しっかりと信徒に導かせるぞ。信徒に導かせるぞ。
導きのできない信徒には、布施の実践をさせるしかない。
導きのできない信徒には、しっかりと布施の実践を徹底させるぞ。
しっかりと布施の実践を徹底させるぞ。
これ以外の方法によって、その魂が救われることはない。
これ以外の方法によって、その魂が救われることはない。
これによってしか、その魂は救済されないんだ。
したがって、徹底的に布施の実践をさせるぞ。
徹底的に布施の実践をさせるぞ。
そして法則を実践させるからには、その法則を徹底して実践されなければならない。
よって私は、ラトナサンヴァバの法則を実践させるぞ。
もともと財そのものは三グナの変形した形である。
したがって、これは誰の所有でもない。
この誰の所有でもないものを真理のために使うとするならば、
それは最高の功徳となる。
逆にこの誰の所有でもない財が、煩悩を増大させるために使われているとするならば、それは断じて救済の障碍である。
断じて救済の障碍である。
なぜならば、その財はその魂の煩悩を増大させるからである。
なぜならば、その財が布施されることによって進むはずの救済計画が、その分だけ進まないからである。
なぜならば、その魂がその財を布施することによって積むはずの功徳を、積むことができないからである。