しかし、『フェードル』は古代ギリシャ・ローマ悲劇の単なる引き写しではない。観客がすでに知っている人物、筋立て、台詞を利用しながら、時代の好みにかなうドラマを提供する——それがフランス古典悲劇の基本的な劇作法だった。問題は、どのようにして古典を時代の精神に適合させるかである。そこに作者の腕の見せ所があり、ラシーヌの独創性が発揮されたのもまさにそこであった。
エウリピデスのヒロインは神にあやつられる哀れな道具だったが、セネカの悲劇では一途に恋する女性へと変貌する。それではラシーヌのフェードルはどうか。
「愛しています。でも、決して思ってはくださいますな、あなたを愛する今この時も、/わたしが自分を罪なきもの、これでよしと認めているなどとは。/(…)天に復讐された不運なこの身を/あなたは忌まわしいとお思いでしょうが、それ以上にわたしは自分がおぞましい。」(二幕五場)
フェードルは、恋が避けられぬ宿命であると知っているが、情熱にひきずられて大罪を犯そうとしている自分を厳しく断罪せずにはいられない。狂おしい恋と明晰な罪の意識とに苛まれる女性——それが、エウリピデスやセネカを受け継ぎながら、ラシーヌが創造した新しい悲劇のヒロインである。
フランス古典悲劇を代表する『フェードル』も、初演時にはまぎれもない新作だった。観客は、古典的伝統の中に実現された現代的創造を味わったのである。