戻ったFoujitaは、また気乗りせぬまま戦争画にたずさわるようになるが、個人的に依頼された戦争画を精魂こめて描き上げたことを契機に、そこに新しい表現世界を見出しのめりこんでいった。日本画壇の中で、美術的価値のある戦争画を残しえたのは、唯一Foujitaだけだったかもしれない。これらは今まで冷たくあしらわれていた日本画壇で、初めて公に認められた作品でもあった。
画業で世界に通じる日本人になりたいと願っていたFoujitaは、ようやくここにきて、その成果を祖国にみとめられたのだった。
しかし終戦と同時に、最も多く戦争画を描いたFoujitaを待っていたのは、他の画家の保身のため、Foujitaひとりに責任があるかのように振舞う、日本美術界の裏切りであった。
日本人であることを何よりも誇りに思い、ようやく自らの芸術が戦争画を通じ祖国に評価されたことを、Foujita自身が誰よりも喜んでいたはず。けれど敗戦の日本において、その嬉々とした様子は誤解を招き、さらには美術価値のある戦争画収集を行おうとするGHQに賛同し協力したことも手伝い、「国賊」「美術界の面汚し」とまで批判されることになった。