・1970年10月10日生まれ。同学年には、羽生、郷田、丸山、藤井、先崎がいる。
・体重は4075g、身長は55cmと非常に大きかったため、大変な難産だった。
・祖父は京須行男八段。奨励会の幹事を務めたこともあったが、
当時の奨励会には中原、米長、大内、河口などが在籍しており、何かと苦労が多かったようだ。
・小学校3年生の時に将棋と出会う。その後、すぐに将棋に夢中になり、
学校から帰ると「将棋世界」誌を読みながら、京須八段の形見の駒を動かしていた。
・1981年1月6日、新宿で開かれた小田急将棋まつりの小学生大会の予選2回戦で
同じ小4で後にライバルとなる羽生善治と初めて対戦し、ツノ銀中飛車で勝利する。
しかし、3日後に行われた本戦の準決勝で再戦し、今度は完敗する。
・1981年8月、友達になった羽生に誘われ、東京都下小学生名人戦に参加するため八王子まで行くが、
神奈川県在住だったため参加することが出来ず、観戦だけして帰った(優勝は羽生少年)。
その姿を見た主催者が不憫に思い、翌年から規定が変わって、県外からの参加もオープンになった。
・1982年4月、小学生名人戦にてTV初登場。しかし、「リハーサルと同じ様にお願いします」という
ADの言葉を勘違いして、将棋まで同じ様に指してしまい、惨敗。優勝した羽生とは対戦できなかった。
・1982年8月、規定が変わった東京都下小学生名人戦に参加。
決勝で小学生名人の羽生を204手の泥仕合の末に下し、優勝する。
・1982年12月、奨励会を受験。入会試験で、負ければ不合格の対局を3連勝して合格(その内の1勝は林葉から)。
・奨励会1級の頃に、高柳道場で時の名人だった中原誠と対局し、大熱戦を演じる。
後年、中原は「ひっぱり込むような受けをされ、負かされそうになった。これは強くなると思いました」と語った。
・奨励会三段の頃に、島朗から研究会の誘いを受ける。もう1人のメンバーに郷田を推薦するか、
佐藤康光を推薦するか迷うが、結局、佐藤を推薦し、さらに羽生を加え、最終的には4人で研究会を結成。
・1987年5月13日、四段に昇段し、プロ棋士になる。翌月に三段リーグが復活したことで、
現在のところ、三段リーグを戦わずに四段になった最後の棋士となっている。