「存在の問い(die Seinsfrage)」
たら書いてるように読めるんだけど、
牛歩の歩みで全然読み終わらないダメ現存在(Da-sein)の俺に
おまいらのアドバイスをください。
哲学板開いてないからここでいいよね?
マルティン・ハイデッガー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AC%E3%83%BC
存在と時間
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93
◇哲学@2ch掲示板
【存在】ハイデガー【有】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1341111730/
★ ハイデガーは なぜ「ナチ党員」だったのか ★
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1341071064/
最初にぱらぱらと本のページをめくったのがたぶん5年くらい前。
で、ときどき思い出しては開いてみるんだけど数ページ読んだら
脳が心地よく疲れて安眠してしまう。
そんなこんなでまだ上巻さえも読み終わってない。
困ったことに(というべきか)ちっともつまらない本ではないので投げ出す理由がない
自分も哲学書はたいていそうだよ
その調子で地味に安眠剤として活用しよう
つか>2の下側トンデモスレwww
ココ・シャネルやフォードの創造物を享受する人々はそのへん割り切ってるぽいのに
ハイデガーだけ取り沙汰されるのはなぜなんだ
あ~ でも面白スレだよ
37 :考える名無しさん:2012/07/02(月) 01:31:22.03 0
>>1
>ハイデゲリアン
怖い命名だな、禿げそうで
にはワロタw
2ちゃんスレでは「現存在」が単なる人間ではなく突き詰めれば「神の世界にいる人間」を示しているたらなんたら議論しているが
1/3も読んでない俺には入っていけんな
手っ取り早くいろいろ脇道のテキストを読めば話がわかりやすくなるんだろうけど
近道を焦る歳でもないからいいや
なぜ「私」ではなく「わたしたち」なのか
これまで読んできたところまででは良くわからない
終わりまで読めば見当はつくというか感じ的にわかるのかな
あまり間を置きすぎずに数ヶ月の短期間で集中的に読み切るのが理想であることはわかっているんだけどね
今、4、5年前に読んだはずの箇所の用語が思い出せず
また前の方に遡っている
「世界・内・存在」と彼が言う時どんなニュアンスで使っていたか
http://www.sakuhinsha.com/nextrelease.html
おい高すぎだろw 足元見すぎもええ加減に
いやいや
他の本いろいろ読んじゃってまた中断してたわ
このスレあると思い出すから建てたのは正解だったかな
新訳は意外に評判が良い
そもそも>>1はなぜもっと読みやすいサルトルとかではなくハイデガーを読もうと思ったのか
ハイデゲリアンを惹きつけるものとはなにか
サルトルって明瞭なぶん割りと直線的というかシンプルすぎるんだよね
短編が一番よくて、「嘔吐」「アルトナ」くらいの長さだと時々「なんかウンザリ」という瞬間があり
「自由への道」「存在と無」とかもう勘弁してください状態
>明瞭なぶん割りと直線的
上手いw
昔フロムを読んでてそんな気になったけど最近もう一度読み返したらどんな感じかなと思う
とにかく哲学書は時間のない時に読むものではないなと実感
やっぱりまぁ
一文ごとに考えさせるからねハイデガーは
疲労はすれど、飽きる筈もなく
時間がない! から 急げ、やっつけろ!ではなく
時間が限られてるからこそしっかり納得することをやれ、と。
まだそこまでは読んでないけど
この本自体がそういう「納得するまでしっかりやる」ことを要求するような文体で書かれている
アーレントの映画なんてあったんか
http://i.imgur.com/fQj06px.jpg%3F1
http://i.imgur.com/Ia6BjOE.jpg
結局のところ、難しい難しいとは言われるけど
何か文章に魅力があるから皆読むんだろうね
熊野訳で41節の「気づかいとしての現存在の存在」あたりまできた哲学の初心者
ところが日本語が厄介だ
ドイツ語はダメなので英訳を参照したが
英語のentityとbeingが日本語では「存在者」と「存在」となっている
ぼくは最初この日本語の区分がよくのみこめなかった
だけど39節の英語訳を読むとこの区別はきわめて重要であることがよくわかった
色々教えてください
ボブ・ディランノーベル賞受賞おめでとう。
「ビートルズやボブ・ディランの歌詞にはたとえばラーキンやベッチマンの詩と並べて考えても
よいものもみられる。・・・ポピュラー・カルチャーに対する偏見にとらわれない態度は、大衆
という文化的マイノリティからの新しい視点を導入して、新しい文学史を書かせるかもしれない。」
(川崎寿彦『イギリス文学史』(成美堂)より)
第6章(現存在の存在としての気づかい(Care As The Being Of Dasein))39節の以下の箇所はどんな意味ですか、
どなたかわかりやすく説明してくれませんか
「現存在の存在は気づかいとして露呈される。」(熊野訳)
(Dasein's Being reveals itself as care.(英訳))
↓
現存在のあり方は気づかいとして現れる、程度の意味ですか?
Edward Robinson 訳のBeing and Time の方が熊野訳より解りやすいようだ、
熊野訳が問題というより日本語という言語の問題だ。
同じ西洋語ということもあろうが、特に現代英語がドイツ語とフランス語から発達したことによろうか、
ドイツ語から英語には移しやすいのだろう。英文学者の川崎寿彦も英語はとても柔軟な言語だ、との旨語っていたことがあるが、そのことだ。
care = Being ahead of itself ー Being already in a world ー as Being alongside entities within-the-world
Once when 'Care' was crossing a river, she saw some clay; she thoughtfully took up a piece and began to shape it. While she was meditating on what she had made, Jupiter came by. 'Care' asked him to give it spirit, and this he gladly granted. ...Saturn their arbiter decided: ...' since 'Care' first shaped this creature, she shall possess it as long as it lives. And because there is now a dispute among you as to its name, let it be called 'homo', for it is made out of humus(earth).'
43. Dasein, Worldhood, and Reality
p.245 Passing over the Being of what is proximally ready-to-hand
.....Even where the issue is not only one of ontical experience but also one of ontological understanding, the interpretation of Being takes its orientation in the first instance from the Being of entities within-the-world. Thereby the Being of what is proximally ready-to-hand gets passed over, and entities are first conceived as a context of Things (res) which are present-at-hand. "Being" acquires the meaning of "Reality". Substantiality becomes the basic characteristic of Being. Corresponding to this way in which the understanding of Being has been diverted, even the ontological understanding of Dasein moves into the horizon of this concept of Being. Like any other entity, Dasein too is present-at-hand as Real. In this way "Being in general" acquires the meaning of "Reality". Accordingly the concept of Reality has a peculiar priority in the ontological problematic
日本語訳では”(what is) proximally ready-to-hand”と”present-at-hand”との意味の相違が十分に表しきれてないように思う。そう思うのは素人の私だけか?
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言語とは一箇の独立した存在であり、人間は成長するとともにそこに参入し、そして参入することによってはじめて人間は人間になれるというわけである。言語は個々の主体が自己を展開する領野として、個々の主体に先立って存在する。そして、言語が「真理」を含むと言えるのは・・・現実がみずからを「脱・隠蔽化」し、私たちの省察に対してみずからを開示する場が言語であるという意味からそう言えるのだ。言語とは疑似客観的な出来事であり、また個々の人間に先立って存在する。こうした言語観を展開するハイデガーの思索は、実に、構造主義の理論と軌を一にしている。(イーグルトン『文学とは何か』:岩波文庫版 、〈上〉P.158)
(構造主義の現実観は)現実を本質的に言語の所産とみる。(それは)、ことによると、世界は人間の意識によって構成されるとした古典的観念論の教えの最新版にすぎぬのではないか。(同、〈上〉P.256)
ソシュールの関心の的は、人間が実際に何を語ったかではなく、人間が何かを語ることを可能にする構造のほうだった。(同、〈上〉P.270)
意味というのは、いうなれば、言語それ自身の関数=産物(ファンクシォン)であって、私の心的過程ではないのだ。(同、〈上〉P.268)