【73年前】八幡空襲翌日の写真発見

1番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2017/06/16(金) 16:32:52.66 ID:/0hohw0X

北九州市は、米爆撃機B29が日本全土への空襲の手始めとして73年前の1944年6月16日、現在の市全域に370発の250キロ爆弾を落とし、322人が犠牲となった「八幡空襲」翌日の写真を発見した。平和資料館(仮称)建設に向け米国立公文書館で発掘した市の戦時資料約300点に含まれていた。八幡空襲直後の写真は市が確認できる限り初めてという。

 市によると、調査を委託した会社が今年1~3月、米国立公文書館の資料の中から市の戦時資料として写真270点、映像17点を見つけた。この中に多くの民家や八幡製鉄所が写った写真があり、撮影した44年6月17日の日付とともに「B29が最初に空襲のターゲットにした場所。日本の製鉄の2割を占める八幡は、我々の空襲の最重要の対象」などと記されていた。

 八幡空襲では、47機のB29が44年6月16日午前1時半ごろから2時間以上にわたって爆撃。主目標とされた八幡製鉄所の被害は軽微だったが、現在の市全域が空襲されて死者322人、重軽傷者477人が出た他、家屋646棟が全半壊した。市内には当時、軍需資材の製造を担った八幡製鉄所や、兵器を製造した小倉陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)などがあったため空襲のターゲットとされた。終戦間際の翌年8月8日には約2500人が死傷した「八幡大空襲」があり、翌9日の長崎への原爆投下も当初の米軍の目標は小倉だったとされる。

 発見された資料には英文の書類が多数含まれ、八幡大空襲後の写真や現在の市域に2カ所あった捕虜収容所に関する写真もあった。いずれの資料もデータ化して持ち帰っており、市は今後内容を精査し、今年度中に平和資料館建設の基本計画をまとめる方針。市は「地域の戦争の歴史を伝えるため、見つかった貴重な写真をしっかりと分析していきたい」としている。

 17歳の時に八幡空襲を体験した荒尾義子さん(90)=同市小倉北区=は「当時は防空壕(ごう)にまだ蓋(ふた)がなく、穴を掘っただけの簡単なものだった。自宅近くでは生き埋めで亡くなった人もいた」と振り返る。「戦争は悲劇としか言えない。あのようなことを繰り返してはいけない」と力を込めた。【井上卓也】

ソースhttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170616-00000068-mai-soci


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