モネのマネ【印象派総合スレ】 #463

463名無しさん@Next2ch:2016/02/20(土) 14:51:21.55 ID:???

7章 「花の絵のように美しい」

かつてルノワールは、ドラクロワによる戦闘図を目にして「花の絵のように美しい」と称えました。彼にとって花の絵は美の基準だったのです。同時に、それは絵画市場の需要に応えるための制作であり、友人たちへの贈り物であり、実験の場でもありました。「花を描くと頭が休まります。モデルと向き合うときの精神の緊張とは別物なのです。花を描くとき、私は1枚のカンヴァスを失うことを恐れずに、さまざまな色調を置き、色を大胆に試みます。こうした試行錯誤から得られた経験を、他の絵に応用するのです」とルノワールは打ち明けています。

8章 《ピアノを弾く少女たち》の周辺

少年時代、聖歌隊に入っていたルノワールは音楽を愛し、音楽家や音楽評論家とも交流しました。《ピアノを弾く少女たち》は、印象派の画家による作品の中で、当時の現代美術館ともいうべきリュクサンブール美術館が1892年に購入した、最初の絵画です。ルノワールの友人である詩人マラルメと批評家ロジェ・マルクスの尽力により実現しました。制作依頼を受けて描かれた6点のヴァージョンのうち、美術局長によって選ばれ、国家が購入したのが、現在オルセー美術館が所蔵する本展の出品作です。中産階級の娘を描いたこの時期の作品には、理想化された構図と、調和のとれた色彩が特徴的です。

9章 身近な人たちの絵と肖像画

ルノワールは生涯を通じて、注文に応え、身の周りからモデルを見つけ出す、熱心な肖像画家でした。後年に描かれた人物画や肖像画の特徴は、ゆったりとした形と入念な彩色。画商ヴォラールは、画家が家事手伝いの娘に唯一求めたのは、「光をしっかりと吸い込む肌」だったと回想しています。妻アリーヌが次男ジャンを身ごもったときに呼び寄せた遠縁の娘ガブリエルは、その後20年間、晩年の画家のよきモデルとなって200点近くの作品に登場しています。触覚的で愛撫するような絵筆は、親密な感情とともに、肌の色合いや衣服の質感を描き出す画家の喜びを伝えています。

10章 裸婦、「芸術に不可欠な形式のひとつ」

ルノワールは、画業のはじめの1860年代には裸婦に取り組んでいましたが、続く20年間はあまり描かず、再びこの「芸術に不可欠な形式」に戻ってきたのは、1890年代のことです。彼はラファエロやティツィアーノ、ルーベンスといった過去の巨匠たちと競いながら、神話ではなく地上を舞台に裸婦像を描きました。その背景となったのは、画家が1907年に広大な土地を購入して住みはじめた南フランスのカーニュ。このアルカディアの地で画家は、悪化するリウマチ、第1次世界大戦に従軍した息子たちの負傷、妻アリーヌの死に直面しながら、「最善を尽くしきるまでは死ぬわけにいかない」と、裸婦の大作に挑み続けました。


スパムを通報

このレスがスパム・荒らしである場合は以下のボタンをクリックして通報してください。
(同意できない意見などに反対票を投じる機能ではありません)
通報

このスレッドを全て表示


レスを書き込む

このスレッドはID非表示です。